昨日、小さな引き出しをひとつ片づけてみたんです。
中に入っていたのは、いつも後回しにしていた“よく分からないモノたち”。
説明書、期限切れの保証書、なんとなく捨てられなかった紙袋、
使っていないボールペンが3本、空になったリップクリームも。
「あ〜、これずっと気になってたんだよな…」
そう思いながら、ぽいぽいと手放していくうちに、
ふと、なんだか胸の奥がじわっと熱くなってきたんです。
「ちゃんと暮らせてない自分」を、ずっと責めていたのかもしれない
私は長年、“自分はだらしない主婦”だと思っていました。
片づけてもすぐ散らかるし、献立も思いつかないし、
洗濯物が山になって、見て見ぬふりをする日もある。
でも、それって本当に「ズボラだから」なんでしょうか?
気持ちが落ち込んでいたり、忙しさでいっぱいいっぱいだったり、
毎日ちゃんと頑張ってる“見えない疲れ”が、暮らしの中に積もっていただけなのかも。
そんなふうに思えたら、涙が出てきました。
棚を片づけたのに、自分の中の“心の棚”まで整理されたみたいでした。
片づけって、「自分との会話」なのかもしれない
たとえば、
「これ、ずっと使ってないけど、まだ持っておく?」
と、ひとつひとつ自分に問いかけていく感じ。
これは誰のために持ってるの?
“いつか”って本当に来るの?
これがなくなったら、私は困るかな?
答えが見つからなくても、問いかけることそのものが、
自分の気持ちを確認する時間になっている気がします。
そうやって少しずつ、自分の内側が見えてくると、
なぜか心が静かに整っていくのがわかるんです。
私たちは、もっと「ゆるされていい」
この年齢になると、家族のこと、仕事のこと、体のこと——
本当にいろんなことがのしかかってきます。
それでも、他人と比べて落ち込んだり、
「もっとちゃんとしなきゃ」と自分を責めてしまったり。
でもね、昨日棚を片づけながら思ったんです。
「今の私のままで、充分じゃない?」って。
散らかった引き出しを見て見ぬふりしたって、
疲れて何もしない日があったって、
それでも生きてるだけで、えらいんですよね、本当は。
今日も、自分にやさしく暮らすために
何か大きなことを変える必要はなくて。
たったひとつ、引き出しを整えたことで、
「暮らしって、自分を大切にすることなんだ」って気づけたから。
今日も、ひとつだけ整えてみようと思います。
・読み終わったはずの古いメモ帳を見直す
・賞味期限の切れた調味料を処分する
・もう履いていない靴をひとつ手放す
ひとつだけでいい。
また明日、気が向いたら、もうひとつやってみよう。
最後に:暮らしは、静かなリハビリみたいなものかもしれない
哀しみの中で出会った「生老病死」という言葉が、
毎日の選択にも、すこしずつ影響を与えてくれています。
今をちゃんと生きること、
余計な荷物を抱えすぎないこと、
自分の声に耳を澄ませること——
そのどれもが、
“生き方を整える”って、こういうことかもしれないなと感じています。
また明日も、暮らしの中で、小さな自分との対話をしてみようと思います。